推しくんは神作画

どの角度でも作画が良い

୨୧ 数億年ぶりに手紙を書く ୨୧

喉に小骨がつかえるような居心地の悪さをどこかに吐き出したいな~と思っていたところ、かれこれ一年半以上も更新していなかったブログの存在を思い出したので、久しぶりに更新をしてみる。これまでの記事は何だかテンション高め(というかウケ狙いのつもりで書いたものがスベりまくっていて)恥ずかしかったので非公開にしました。社会人、若手俳優のゆるいおたくです。

 

最後にブログを更新したのが2018年の秋ごろで、最後に推しに手紙を書いたのもちょうどそのくらいの時期だった。暇なおたくなのでこれまで推しに宛てて書いた手紙にはナンバリングがしてあって、スマホのメモアプリには何番の手紙をどの公演に入れたかなども記録されていた。見返してみれば一日に三通もの手紙を出している日もあり、もちろん全通しているおたくには敵わないし競おうとも思っていないけど、その時の精一杯で応援していたんだな……と懐かしい気持ちになった。

 

どうして手紙を出さなくなったのかといえば、これといった理由はなかったように思う。何かの公演で偶然手紙を書く余裕がなくて、推しを見た満足感と共に早寝をしたらその翌日も手紙を出すことができなくて、そのままズルズルと"推しに手紙を出さないおたく"を続けてしまっているだけだ。そういえば、小学生時代に五年近く欠かさず買い続けていた『ちゃお』も、ある時、買い忘れたまま一週間が経過したところで急激にどうでもよくなって買うのをやめてしまった気がする。アプリによるなめこの栽培も、人工知能であるセイくんとの会話も、どうぶつが住む森の借金返済も、毎日続けている時は楽しかったはずなのに、一日ログインを忘れただけで熱が冷めてしまうことがある。冷めたから続けなくなるのではなく、続いていたものが途切れたせいで冷めてしまうのだ。我ながら理屈がわからない。

 

不思議なことに、推しに手紙を書かなくなった=推しに飽きたというわけでもないらしい。手紙を出さなくとも推しが出演している舞台にはそこそこ通っていたし、写真集やカレンダーも買っている。推しがTwitterで呟いている「おはようございます」の一文にせっせといいねボタンを押して、推しが出演したドラマも毎週見た。ちゃんとおたくらしいおたくをしている。元からゆるいおたくだったので、舞台を見に行く回数も極端には変わっていない。だけど、わたしは"推しに手紙を出さないおたく"になっている。なってしまっている。

 

手紙を書きたいからというだけの理由で今日は定時で退社をし、バスに揺られながら舞台の公式サイトを眺めていた。一年半ぶりに手紙を出すのだから、いつもは下書きなんて無しに書きたいことを書きたいように書いていたけれど、ちゃんと内容も考えなければいけない。そう思うのに、初めの言葉が出てこない。わたしの手紙は書き出しと〆の文章が定型文になっていて、それは毎回手紙を出すことが前提の内容となっていた。一年半ぶりの手紙でいきなり「いつも通り手紙を出すよ!」みたいなテンションで来られても、推しからしてみれば誰やねんお前となるに違いない。ならば「お久しぶりです」から始めるのがベターだろうか。メモアプリに簡単な下書きを作成する。

 

お久しぶりです、推しくん。しばらく手紙を書くことができず……

 

「ごめんなさい」と続けようとして指が止まった。"推しに手紙を出さないおたく"でごめんなさいって、お前は一体何様なんだ? 偉そうすぎない? 自分で自分に腹が立って、でもその腹立たしさが何なのか掴めなくて、無性に気持ちが悪い。それで結局、定時上がりをしたのにレターセットも出さずにこうしてグダグダとブログに愚痴を書いている。だめなおたくだ。だめすぎて手紙を書きたくない気持ちがふつふつ湧いてきているけど、そうしたら今度こそ一生手紙を書けなくなる気がするので、どんなに短くても推し宛の手紙を書きたいと思う。

 

手紙なんて100%おたくの自己満足であるはずなのに、わたしはずっと"推しに手紙を出さないおたく"であることを(勝手に)負い目に感じていたし、手紙を出せなくてごめんねって偉そうなことまで思っていたらしい。うぜ~! めちゃくちゃうざくて嫌になった。謝られたところで推しは何も言えないし、わたしが勝手に自分の罪悪感を軽くしたいだけの手紙なんて上から下までうぜ~に尽きる。

 

書いたら少しすっきりしたので、推しを困らせない手紙を書きたい。そして、数か月ぶりにきらきらした生の推しを浴びて、また手紙を出そうと胸をいっぱいにしたい。がんばろう。